晴耕雨読日記(仮)

以前、はてなダイアリーで書いていた「晴耕雨読」の引っ越し先です。今の生活は全くもって「晴耕雨読」ではないので、タイトルは現在思案中。

戦争がどんどん遠くなっていく

今日は長崎原爆記念日であり、私の誕生日でもある。そんなわけで、自分の誕生日が来るたびに、戦争のことを考える私であります。
それにしても、かつてこの国がやっていた戦争の記憶はどんどん遠くなっていくというか薄れていっている気がします。概念としての戦争についてはしじゅう語られているけれども、「体験」としての戦争はどんどん忘れられているというか。まあ、体験者が物故者となっていっているのだからしかたがないのかもしれないけれども。


私が子供だった頃はまだ「戦後」だった。昭和40年代ですから。
8月は今よりももっと、死者の匂いというか雰囲気というか、そういうものが身近に感じられる季節だったように思う。「お盆休み」というものが厳然として世の中にあって、旧の七夕(私の実家方面では七夕といえば8月7日)を終えるとお盆の準備に入る。遠くから親戚が帰ってくる家も多く、隣近所もなんだかにぎやかでした。お店もお盆休みに入るところが多かったから、食材なんかも買い込んで、ちょっと非日常の雰囲気がして、子供心にわくわくするものがありました。
親戚の家のお仏壇に参りに行くと、ちょうどおじさんたちが集まっていて、昼ご飯ができるまで麦茶を飲みながらおしゃべりしていたり。そういう時の話題はたいてい戦時中、出征していた時の話だったと思う。私の親戚のおじさんたちは、フィリピン方面に行っていた人が多かったらしく、そんなわけで私は小野田さんが見つかる前に、「ルソン島」という島の名前を知っていた。戦死した人の話、戦争中の話、戦後、復員してからの苦労話。夏のおしゃべりといえばそういうものだったように思う。


そういう話をしなくなってからずいぶん経つ。私自身、夏休みというのはどこかに長期間の旅行に行くものであって、亡くなった人を偲ぶこともない日々をもう何年も続けてきたし。
でもそれでいいのかなー、と思ったりもする。本で読む歴史ではなく、体験としての戦争がどんどん忘れられていくのって、大丈夫なのかなあ。