晴耕雨読日記(仮)

以前、はてなダイアリーで書いていた「晴耕雨読」の引っ越し先です。今の生活は全くもって「晴耕雨読」ではないので、タイトルは現在思案中。

「フレンチ上海」

フレンチ上海 (コロナ・ブックス)

フレンチ上海 (コロナ・ブックス)

旦那さんが買ってきてくれた本。
著者の「にむらじゅんこ」さんは、本来フランス語畑の方のようです。確かに印象は違いますね。中華なライターさんが異国情緒について書いても結局ベースは中華、って感じがするけど、中華じゃない人が上海を見るとこう見えるのか、と。


戦争は、繰り返してはいけないと思っていますが、「租界」という言葉に惹かれてしまうのはなぜなのだろう。
それはたぶん、さだまさしのせいである。きっと。
さだまさしを聞かなくなってから久しいが、実は学生の頃は意外と聞き込んでいたのだった。で、彼の曲の中に「フレディ、もしくは三教街〜ロシア租界にて〜」という唄がある。その歌詞の中に「フランス租界へとランデブー」というのがあるのだ。


フレディとこの曲の主人公である女性はロシア租界で恋に落ち、「ヘイゼルウッド」というケーキ屋のおじいさんや「ボンコ」というレンガ焼のパン屋のおばあさんのように二人で年を取っていきたい、と思っていたのに、フレディが戦争で死んでしまって……という曲。


この曲の舞台は「漢口」、武漢ですね。漢口には当時、イギリス、フランス、日本、ドイツ、ロシアの租界があったそうです。
中国からすれば腹立たしい制度だったと思いますが、「租界」と聞くと何かロマンチックなイメージを持ってしまうのは、さだまさしのこの曲のせいでしょう。
彼の大陸志向にも、共鳴するところは多かったです。学生時代、彼のコンサートに何度か行ったことがあり、しかも高校時代には映画「長江」まで見てしまっている私ですが(う、若気の至り…)、それはたぶん、私の祖母の影響もあった気がします。


母方の祖母は、13歳の頃、「これからは手に職をつけて生きる時代だ!」と言って、当時台北に住んでいた兄のもとに移り住んだ、という人でした。そこで和裁の技術を身につけます(台北で和裁、っていうのも不思議ですが)。その後、写真だけの見合いで、大連で呉服屋をやっていた祖父のもとに嫁ぎ、母たち兄弟を4人産みました。母の赤ちゃんの頃の写真を見ると、どこのお姫様か?というような着飾りっぷりで、羽振りのよさがわかりました。
その後敗戦を迎え、ほとんど着の身着のままで日本に帰国したようです。大連での家財道具はもちろん日本に向けて搬出したようですが、途中ですべて消えてしまったそうです。その当時の大陸・半島の状況を考えればそれもやむを得なかったでしょう。家族揃って全員帰国できただけでも幸運なほうだったかもしれません。最近はあまり取り上げられませんが、中国残留孤児の訪日調査のニュースを、母は見るのを嫌っていました。自分も一歩間違えていたら、あの立場だったかもしれないと思うと複雑な気持ちだったようです。


母はそんな感じでしたが、なぜか我々姉妹は中国好きに育ってしまいました。妹は大学に入ると同時に(日本文学科なのに)台湾人の先生について中国語をマスターし、大学4年で休学して北京の大学に留学。姉は留学こそしなかったものの、なんだか知らないが中国語の映画だの音楽だのにはまり、年に何度も中華圏に旅行に行き、中国語の仕事をしている男性と結婚してしまう。「なんでうちの娘たちは、こんなに中国が好きなのかしら……」としみじみと言われましたが、それはおばあちゃんの血なのかもしれないよ、お母さん。


妹が留学してすぐ、母と同居していた祖母に電話があり「今度大連に行くんだけど、おばあちゃん、家があったとこ覚えてる?」と聞かれたところ、祖母はすらすらと道順を教え、その通りに行ったらその通りの建物があった、と妹が教えてくれたことがあります。
徳島→台北→大連→大村(引き揚げ地)→下関、と人生の中で大きな引っ越しを何度も経験した祖母にとって、大連は思い出の多い場所だったのでしょう。


そんな思い出があるので、どうしても租界があったところには興味をひかれます。
上海がすべて破壊し尽くされないうちに、行かなくては!