晴耕雨読日記(仮)

以前、はてなダイアリーで書いていた「晴耕雨読」の引っ越し先です。今の生活は全くもって「晴耕雨読」ではないので、タイトルは現在思案中。

夏は、死者の魂が寄り添う季節

この映画、ノーテンキな福建歌謡歌合戦みたいな側面がありつつ、実は死の匂いがすごくする映画でした。小木瓜(リトルパパイヤ)の死に至る病がなんだったのかはわからないけど、シンガポールの中元節(ハングリー・ゴースト・フェスティバル)は死者がこの世に帰ってくる季節であり、その死者の魂を慰めるために歌台があり。


この感覚、私はちょっとわかる。以前の日記で、子供の頃に住んでいたところでやっていた盆踊りのことを書いたことがあるが(http://d.hatena.ne.jp/yizi/20060618)、夏、特に八月は死んだ人が身近に感じられる時だと思う。旧暦の七夕が終わったらお盆祭り(盆踊りではなく盆祭り)の準備が始まり、町をあげて死者の魂の帰還の準備をする。それぞれの家では迎え火をし、送り火をする。他の地域は知らないけど、私の育ったところでは盆提灯は幻灯のようにぐるぐると絵柄が回る意匠になっていて、夜、お手洗いに目が覚めて仏間に足を踏み入れると(うちは濡れ縁の端にお手洗いがあって、仏間を通らないとたどりつけなかった。サザエさんちの間取りみたいな感じ)、ゆーらゆーらと回る盆提灯が、まるで死んだ人が回しているみたいで、すっごく怖かった。怖いと思うくらい、死者の魂は身近にあった気がする。


人間の生死はきっぱりと層がわかれているわけではなく、酸性とアルカリ性みたなもんじゃないかと私は思っている。わかりやすく「生きている」「死んでいる」がはっきりしている層もあるけど、どっちにも転べる層もある。たとえば「脳死」と判定される状態や、心肺停止なんだけど心臓マッサージをするとその間は動いている時とかは、生と死のどちらにも分けられない気がする。
木瓜は少しずつ死に向かって歩を進めていたような。少しずつ弱っていってだんだん死に近づいていって、誰にも「死」の状態から引きずり戻すことができなくなって、死に至ったように見えた。多くの人の死はそういうものなんじゃないだろうか。交通事故や不慮の何かしらの事故でいきなり断ち切られるみたいに命がなくなった人は別として、病の場合は。
生きたいという気持ちが少しずつ削られていく姿が「十二蓮花」という福建歌謡とともにつづられていくシーンは、本当に切なく観ました……が、実際の福建歌謡の世界では、「十二蓮花」って結構明るく歌われているんだよな。ここがわからん。この映画でも歌われているそれぞれの歌詞は深刻な話が多いのに、曲調はなんだかとってもノーテンキ。テクノだったりするし。
深刻なことだからこそ、明るく歌い飛ばせ!ってことなんだろうか?


監督のロイストン・タンの次回作は「十二蓮花」。YouTubeで検索すると予告編がちらほら見られます。