晴耕雨読日記(仮)

以前、はてなダイアリーで書いていた「晴耕雨読」の引っ越し先です。今の生活は全くもって「晴耕雨読」ではないので、タイトルは現在思案中。

蒙を啓かれたことがある、という話

少し前の「東京人」(夏目漱石の特集号)を読んだ。
森まゆみの「漱石をめぐるホモソーシャルな関係」という一文が大変おもしろかったのだが、そのなかに森鷗外についてこういう一節があった。

 「『鷗外の坂』を読んで、ようやく少し鷗外が好きになりました」といってくれた人が多い。あの人も恋をし、母と妻との間で悩み、娘を溺愛した人間らしい人だったんですね、と。
 少女たちはみな、高校生のとき国語教科書で『舞姫』を学び、いっぺんで乗ス外が嫌いになってしまう。国家や家というものを背負って官費留学をした男の責任と、自由な恋愛や自我との葛藤など少女には伝わらない。彼女たち(私もその一員であった)にとっては、主人公太田豊太郎は女を愛し、情を通じ、妊娠させたあげく、ポイ捨てして無責任に帰国した男、としかうつらない。それが鷗外その人の人生に重なって見える。
森まゆみ漱石をめぐるホモソーシャルな関係」『東京人』2006年2月号52ページより引用)

この一節のような気持ちは私にも覚えがある。やはり高校生の時に現代国語の時間に『舞姫』を読んだのだ。確か、高校3年最後の現国の最後の教材だったような記憶がある。その時の現国の先生は私たちの遙か先輩に当たる人で(私の学校は女子校だった)、まさしくこの森まゆみの文章のように解釈していた。私もそんなに深読みもしていなかったし、なんだ太田豊太郎、ヤなやつ、と思っていたし、だいたいこんな男に都合のいい話がなんで名作として教科書なんかに載ってんだ?とばかばかしく思っていた。


で、ここで話が終わればまさに長らく鷗外を嫌いっぱなしになるのだろうが、私の場合、早くにその考えを覆す出来事があった。なんと、その3ヶ月後、大学の国文学科に入って最初の「国文学演習」の題材が『舞姫』だったのだ。


「また『舞姫』〜?こないだ読んだばっかりだよぅ」とぶつくさ言いながら臨んだ授業だった(しかも、教材用に岩波文庫新潮文庫かから出てた文庫本を買わされたし。高校生の時だったら教科書1冊で何でもまかなえたのに!)。が、しかし、この演習の1時間目に担当教授が爆弾を放ったのだった。
「エリスはユダヤ人で、父親が死んだけど葬式も出せないほど貧乏なので、葬式代のために通りかかったいかにも金を持ってそうな豊太郎に身を売った」という“エリス・ユダヤ人娼婦説”である。


冒頭の一文「石炭をばはや積み果てつ」を独特なイントネーションで読むその先生は、3ヶ月前の少女趣味な現国の教師とはまったく別の解釈で、「エリスの思惑」をいきいきと語ってくれ、その時、周辺取材をして本を読むおもしろさ、みたいなものを初めて知ったのだった。背景とか細かいネタを仕込んで読むと、小説はまた格別のおもしろさをもたらしてくれる、ということを。
そういえば最近そういう本の読み方してないな。またいろいろ読んでみなくては。


ところで、浅学な私はこの一文にて初めて「ホモソーシャル」という単語を知ったのだが、ちらちらといろいろなところで意味を見るにつけどうもうちの会社の男性陣もこれにあたるのではないか、と思い始めてきた。とはいえ、概念の意味するところを確実につかんでいるわけではないので一概にはなんともいえないのだが。なんか、女子同士よりも濃密に仲がいいのだ、男性が。うちの会社って。