晴耕雨読日記(仮)

以前、はてなダイアリーで書いていた「晴耕雨読」の引っ越し先です。今の生活は全くもって「晴耕雨読」ではないので、タイトルは現在思案中。

1989年の今日。

18年前の今頃、私は毎日航空会社の乗客名簿を調べてもらっていた。


外務省邦人保護課は、私達には何の助けにもならなかった。
「こちらでもわからないんです。航空会社の乗客名簿に名前があるかどうか確認してください」


妹はその2ヶ月前から北京の大学に留学していた。連絡が取れなくなっていた。電話は通じるが、出てもらえなかったり、呼び出してもらえなかったり。
ニュース映像は不安をかきたてるものしかなく、母も精神的に不安定になっていた。


私の職場も混乱していた。
当時私は日本語学校に勤めていた。5月の初めはそれでもまだましだった。中国人学生は若干浮ついていたが、冷静な人たちもまだいた。
ある日教室に入っていくと韓国人学生と中国人学生がにらみあっている。理由を聞くと、最初に韓国人学生が中国の学生運動を若干揶揄するようなことを言い、それに対して中国人学生が「でも、中国人は理性的に学生運動をやっている。韓国じゃ火炎瓶を投げたり暴力に訴えるじゃないか」というような趣旨のことを言って、そこから大げんかになったらしい。
「殴り合うなら外でやんなさい。勉強しないなら外に行って」
というと、しぶしぶ座っていた。それくらいのものだった。


6月が近くなるに連れ、北京出身の学生たちは日に日に落ち着きをなくしていった。今のようにインターネットで情報が取れる時代ではなかった。いろいろなところからいろいろな噂が出て、翻弄されていた。
ついに武力制圧となり、衝撃的な映像がテレビのどのチャンネルをつけても流れるようになったとき、校内の混乱は最大を極めた。
「私の家は天安門の近くです。母が住んでいます。電話をしても母は出ません。心配なんです」
私よりもずっと年上で、ずっと体の大きい男性であるYさんが背中を丸めるようにして泣きそうになっているのを見ても、私には気の利いたことも言えなかった。


妹は、5日だったか6日だったかに連絡がついた。彼女から連絡をしてきたのだ。
留学生には、日本大使館から大学ごとにまとまったら連絡してこいという連絡があったらしい。彼女の通っていた理工系の大学の日本人留学生はようやく全員が連絡がつき、大使館に連絡したところ、「自分たちで空港までバスをチャーターして帰ってください。大使館はあなたたちの小間使いじゃないんだから」と言われたそうだ。でも、北京大学中国人民大学の留学生たちは一番に帰してもらえたらしい。外務省の派遣学生でもいたのだろうか。
どうやって都合したのかはわからないが、バスをチャーターして北京空港まで移動する間、いつ銃撃されるかと思うと生きた心地もしなかったらしい。当時妹は付き合っていた男の子がいて、彼は中国人民大学の学生だったのだが、妹が心配で残っていてくれた。しかし空港に着いたら問答無用で飛行機を割り振られたらしい。
朝7時に彼から私の家に電話があった。
「今、羽田に着きました。でも僕一人です。彼女はあとから飛んでくる便に乗っているはずです。僕、これから成田に行ってきます。彼女を連れて東京に戻ってきますから」
本当にありがたかった。こんな混乱の中、あの子一人だったらどんな目にあっていたかと思うと、今でも彼には感謝している。


その日、仕事帰りに新宿駅で二人と待ち合わせをした。
こうこうと明るい照明の中で、ぼうぜんと立っている二人の周囲だけ、色がなかった。
「おねえちゃん、日本って無駄に明るいね」
と彼女は言った。


あの子は6月4日が誕生日。
「こんな中だけど、あなたの誕生日だもの、お祝いしよう」と中国人の友達に誘われて、自転車で寮を出たそうだ。
彼女が寮を出た直後、「市街で銃撃戦をやっているらしい。外出しないように」という寮内放送が流れたらしい。
そしてあの子はいろいろなものを見てしまった、らしい。らしいというのは、そのことについては聞いたことがないからだ。彼女はその時見たことについては私達には何も言わなかった。
言っても仕方がないと思ったかもしれない。だって、私も母も日本にいて、どう説明したってあの子の体験を理解してくれるとはとうてい思えなかっただろう。


母は「もう中国になんかやらない」とよく言っていた。「帰ってきてからもぼーっとしていることが多くて、何て言っていいかわからない」とも言っていた。
それなのに、1ヶ月もするとあの子は「中国に戻る」と言いだした。母は泣いて止めたが、「大丈夫、危ないと思ったらすぐに帰ってくる」と言って、本当に行ってしまった。「なんで戻るのよ」と聞いたら「うーん、新疆旅行の予約してるんだよねー」と笑っていた。
北京からはすぐに手紙が来た。「大学は、これが同じ大学かと思うくらい人がいません。そして、大学の中にいる3分の1ぐらいは公安です」と。
北京にはあまり長居せず、すぐに新疆に旅だったようだ。シルクロードのあちこちから絵はがきが来た。中国の地図の西の果てからの絵はがきを見て、「なんであの子はそんなに中国に惹かれるんだろう」と思ったものだ。
東北部に夜行で旅行に行ったときは、寝台で横になっていると知らない中国人から耳元で「日本鬼子」とささやかれたり、嫌な思いをいっぱいしているはずなのに。
妹の気持ちはたぶん私には一生わからないだろう。好きとか嫌いとかそんな一言で言えるような国ではないのだ、たぶん彼女にとっては。


私の職場は事件後2ヶ月くらいは混乱していた。
中国人学生たちは、6月はまったく勉強にならなかった。学校は情報交換の場だった。言っても聞かないし、学校には中国人以外の学生も多くいたし、私達は「授業は聞きなさいよ」と言いながらもそっとしておくしかなかった。中には腕章をして学校に来る子もいたし、都内で行われた抗議集会に参加した子もいた。
そうしているうちに徐々に校内は落ち着いてきたが、その間の勉強の遅れはおいつけるものではなかった。あの時期に来てしまったために、日本での時間やお金を無駄に費やしてしまったと思っている人は多いんじゃないかと今でも思っている。


当時日本語教師仲間で時々話にのぼっていたのは、公安にマークされている生徒がいるらしい、という話。それも日本の公安ではなく、中国の公安に。定期的に居住を確認するかのようにかかってくる無言電話、あるいは「住んでるな」という短い中国語が聞こえて来るという話を聞いたことがある。自分のクラスの○さんも夫婦で集会に出てたから、もう中国には帰れないって言ってるわ、と仲のよかった先生が言っていた。


事件から数年後、ある駅前でYさんにあった。あの、天安門の近くに母が住んでいて、と取り乱していた体の大きな男性だ。
「先生!」
「うわー、Yさん!久しぶり!今どうしてるの?」
「先生、わたし中国に帰れない。あの時運動しちゃったから。だから今オーバーステイなんです」
「……え……」
「でも大丈夫、いつか北京に帰るから。先生また!」
そうして彼は手を振って去っていった。それきり彼はどうしたか私は知らない。


毎年この日が来るたびに、いつもこんなことを思い出す。ぼろぼろになって帰ってきた妹、学生たちの甲高いしゃべり声、Yさんの興奮した赤い顔。


今の中国を見ていると、まるで嘘のような出来事で、年を経るごとに扱いも小さくなっていく六四ではあるけれども、


私は忘れない。たぶん、この先もずっと。