晴耕雨読日記(仮)

以前、はてなダイアリーで書いていた「晴耕雨読」の引っ越し先です。今の生活は全くもって「晴耕雨読」ではないので、タイトルは現在思案中。

違和感

自分がもの知らずなだけなのかもしれないけれども、最近のチベット情勢関連ニュースの中で、中国がダライラマ14世のことを「ダライ」と言ったり、日本のニュースサイトでも「ダライ氏」と呼んでいたりするのが気になる。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のサイトの「ダライ・ラマ法王14世について」というページによれば(http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/about.html)、「ダライ・ラマとはモンゴルの称号で「大海」を意味し」とある。また、「ラマ」とはおおざっぱに「チベット仏教の僧」というように言われているように思うが、本当のところはどうなのか?と検索してみると、「文殊師利大乗仏教会」のサイト内「チベット仏教におけるラマの定義について」というページ(http://www.mmba.jp/profile/whatislama_sn.html)にて野村正次郎さんという方が

そもそも「ラマ」(bla ma)とは、サンスクリット語の「グル」(guru)に当たり、「上の人」を意味する。これは漢訳での「上人」という語に当たり、これは最もその原意を伝えている。そのほかにも「上師」と訳されることもある。
(中略)
現在チベット人社会において、「ラマ」とか「リンポチェ」と呼ぶに相応しい人物とは、少なくともケンポ(僧堂長、学堂長)の経験者か、もしくは過去に「ラマ」であった人物の転生者であり、それ以外の人物に対しては「ラマ」とか「リンポチェ」と呼ぶことはない。
(中略)
「ラマ」にあたるような人物は、現在六百万人程度いるとされるチベット人の中でも百人以下である。転生者制度に若干批判的な僧侶であれば、その数をより少なく見積もり、多くて十数人、少なく見積もれば、五、六人となる。このようにチベット人社会のなかでも「ラマ」の名で呼ばれる人は極めて少なく、類い稀な人物以外に「ラマ」と呼ぶことはない。そしてそのような「ラマ」は、チベット人一般大衆によって帰依される対象となる。
(後略)

と書かれており(全文は上記サイトからお読みになることをお勧めします)、「上人」とか「師」というような敬称であるみたいですね。
そうすると、中国が「ダライ」と呼び捨てにするのは昨今の政治情勢から理解できなくはないのですが、なぜ日本のニュースサイトまで「ダライ氏」となるのでしょう?「ダライ・ラマ」でいいじゃんね?


人の名前をどう呼ぶかは大事な問題なんだから、正しく呼びたいものです。